イエス・キリストが教えたまことの福音「神の義」【1】
ほとんどの宗教は「良い行いをしなさい」と教える。
行いによってその人が良い人間かそれとも悪い人間かを測られるとしたら、
しかも、生前のあなたの行いで死後の行き先が決められるとしたらあなたはどう思いますか。
子供の頃、私は周りの大人たちからは、親孝行で良い子供だと見られていました。
しかし大きくなるにつれて、自分には全く正反対の悪い心があることに気づき始め、
誰かが自分を誉めると内なる自分は、「そんな者ではない!」と叫びました。
そして高校生になる頃、自分は二重人格者だと思うようになり、こんな自分を変えてくれるものがないかを考え始めた。
1.人の義は「一時的」、神の義は「永遠」人の義は一時的です。
(※ 義=条理。正しい道。道理にかなったこと。人道に従うこと。)
これは私の義の行いによるので、「私」の今だけを修復する。明日は分からない。
明日、悪いことをすれば、義はなくなってしまう。
人の義は、人生のほんの一部だけをカバーするが、一度努力を怠るとすぐに罪人に戻ってしまう。
神の義は永遠であり、私の人生の過去だけを覆ったのではない。
私の過去も、現在も、未来も、いわば、私の人生の全部が神の義によって覆われている。
たとえ罪を犯してしまうことがあっても、十字架の永遠の血が私を赦し、完全な義人の身分を取り戻すことが出来る。
私は生きている間ずっと「神の義」であり、死んでからも天国でずっと神の義の中にいる。もはや、私の生涯と神の義を切り離すことはできない。
「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それはこの方にあって、私たちが神の義となるためです。」 IIコリント5:21
聖書は、私たちが神の義を持つのではなく、私たちが神の義になるのだと言っている。
2.人の義は「外面的」、神の義は「内面的」
人の義は、何かしらの教え、ルール、おきてを守る行いにより、外面を変えることによって義とされようとする。
人の義はとても「見栄えがいい」確かに聖書は良い行いを教え勧めている。しかし、
人の義は、「良い行いをしている人は良い」「悪い行いをしている人は悪い」
「良い人になりたいなら、悪い行いをやめて良い行いをしなさい」というように、
単純に人々を行いの物差しで測る。
ところが、どれだけ義を外から押し込もうとしても、人の心を義に造り変えることはない。
「ヒョウは全部の毛を剃っても、またすぐに同じ模様の毛が生える」
新改訳:「ひょうがその斑点を、変えることができようか」 エレミヤ書13:23
どんなに外面的に綺麗な行いをしても、表皮の下にあるものを変えることができない。
しかし、神の義は、行いの良し悪しに関係なく、信仰によってまず人の内側に与えられて、最初から無条件で人の心を義とする。
私たちの心には現在、罪の余波よりもさらに力を持っている巨大な「神の義の波紋」がある。
罪はいずれ力を失い、鎮まっていく「余波」に過ぎないが、神の義はこれからどんどん力を増し加えていく「巨大で強力な波紋」だ。
イエス様を信じた瞬間、罪の波紋を生み出す元凶が取り除かれたと同時に、新しく心の中に、神の義の波紋を生み出す巨大な岩(イエス様)が落下した。
3.「福音は神の力である」。
「神の力」とはギリシャ語で「デュナミス」、「ダイナマイト」という言葉が使われている。
つまり神の義とは、ダイナマイトのような力があり、信じる人の心の中で、神の義の大爆発と波紋を起こさせる。
「死は勝利にのまれた」(罪は義に飲み込まれた) 1コリント15:54
この内側からあふれる義が、私たちに外面にあらわれる義の行いをさせるようになる。
私も、あなたも変えられることが出来る。何と百八十度変えられた人生を歩むことができる。
罪を持っている限り義の的に向かっていない。「罪」とは的外れと言う意味だ。
あなたの心の中に、いつも自分を責め立てる思いや苦しめている過去の苦い経験はありませんか?
それを振り払おうとしても振り払うことは出来ません。
忘れようとしても一時的に忘れることが出来ても、何かの拍子に再び思い出してしまう。
それを誰にも言わないで心にそっとしまったとしても心の中に固い石の塊のように残っている。
そんな嫌な過去の出来事から根本的に自由にされる方法がある。
それがあなたを義としてくださるイエス・キリストの十字架である。
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