私の、音楽との出会い
お元気ですか。ようこそハレルヤ・ライフへ。
私の子供時代(昭和30年代の音楽と言えば、
民謡、演歌、歌謡曲、童謡と言ったところでしょうか。
そのころはテレビがまだ普及していなくて、
ラジオで音楽を聴くのが一般的だった時代です。
勿論、豊かでハイカラな家なら、ステレオがあった
かも知れませんが、我が家は御多分に洩れず、
貧乏な家庭でしたのでそんな高価なものはありませんでした。
私が西洋音楽に目覚めたのは、中学校に入った
昭和41年の音楽の授業の時です。
初めての音楽教室でのレコード鑑賞の時間がやって来ました。
生まれて初めて聴くクラッシックの曲は、
サラサーテ作曲の「チゴイネルワイゼン」でした。
流浪の民であるジプシーを題材にした重々しく
切ないメロディーで、有名な旋律の所で
私はいつしか涙を流していました。
男がクラッシックを聴いて涙を流すなんて
見られたら恥ずかしい、と思って誰にも
気付かれないようにしたつもりでしたが、
一人それに気づいた人がいました。
1年生の音楽の担当の和歌子先生でした。
細身でちゃきちゃきして2倍速で話す方で、
丸メガネをかけていかにも頭が良さそうで、
どんな小さなことも見逃さないような先生でした。
その先生が私の涙を見逃すはずもなく、
こんな田舎で育った子供が、クラッシックを聞いて
涙を流した生徒がいる!と職員室でも言いふらして
ちょっと有名になったようでした。
確か高校を卒業してだいぶ経った頃、先生の家に伺った時に
その時の話しをされて気恥ずかしかったのを覚えています。
民謡か演歌かあるいは歌謡曲ぐらいしか聴かない家庭環境でしたが、
なぜかクラッシックの魅力にたちまち取り憑かれてしまいました。
クラブ活動も運動部に入ることは選択肢の中になかったので、
文化部のどこかと考えていた時、先輩の誘いに乗せられて
吹奏楽部に入りました。
そこで演奏される曲はほとんどが西洋音楽で、
私の心を揺さぶり満足させるものでした。
毎日毎日、部活に明け暮れ高校に入っても続けたので、
吹奏楽は6年やったことになります。
高校受験で選んだ高校は、自分にまったく似つかわしくない
工業高校でした。
これまた中学の吹奏楽部の憧れの先輩の誘いに負けて
入ったわけですが、吹奏楽部の先生との劇的な出会いが
そこにありました。
続く・・・